ホテル龍名館お茶の水本店

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明治、大正、昭和、そして平成を迎え、今日も明日もお客様を迎え続ける龍名館百余年の歴史

明治

初代・濱田卯平衛は、東京・日本橋室町で江戸時代から営業していた名倉屋旅館に、4代目を継ぐ長男として生まれました。しかし、名倉屋は姉が養子を迎えて 継いだため、明治32年、名倉屋の分店として東京・神田区南甲賀町(現・東京都千代田区神田駿河台)に龍名館を創業しました。龍名館という名は、姉の名前 「辰」と、名倉屋の「名」にちなんだものと思われます。
建物は、総2階建てで、部屋はすべて庭に面していました。洗練された和風の造りは、趣味人や各界の方々を惹きつけ、当時の雑誌にも紹介されるほどでした。 什器備品にもこだわり、選びぬかれた品々を使いました。
また、新しいもの好きであった初代は、庭の一画に西洋館を造り、コックを置いて洋食もお出ししました。そのように、初代、妻・うた共に事業に熱心でしたの で、旅館は順調に波にのり、大正時代のはじめには、呉服橋支店、猿楽町分店を出すほどに発展しました。

大正

大正7年、濱田次郎(旧姓・高久次郎)が2代目として当主を継いだ後、大正12年、関東大震災が起こりました。本店は、周囲に建物の少ない、閑静な場所に あったので焼失はまぬがれるものと思われましたが、火の勢いは予想を上回るものでした。猿楽町の分店は、3階建てに改築した直後でしたが、本店、支店と同 じ運命をたどり、結局3店とも焼失してしまいました。2代目は焼跡にたたずみ、大変忍びがたい思いをしたようです。 震災後には、まず再建のために資金を調達しなければなりませんでした。2代目と、初代夫人・うたの二人で、お客様の一人であった山形県・酒田の本間様にお 願いに上がりました。本間様に資金の援助をお願いすると、ふたつ返事で了承いただき、しかも、無利息、無期限ということでした。そのお金がなければ今日の 龍名館もありません。本間様のご厚意にむくいるためにも、2代目はじめ一同が事業に励み、拝借した資金は、戦前には完済することができました。

昭和

関東大震災からの復興が進むなか、昭和の代となりました。
大震災で被害をうけた建物は、なんとか再建できましたが、世の中の景気は悪く、 龍名館にとっては厳しい時代の幕開けとなりました。
オリンピックが日本で開催されることになり、2階建て8室の新館を建設しましたが、戦争の影が色濃くなり、オリンピックは開催されませんでした。
そして、第2次世界大戦が勃発。昭和19年の秋からは、本店の新館8室と広間を「大東亜省」の官舎としてお貸しすることになりました。
しかし、戦況は悪く なる一方で、昭和20年の春、呉服橋支店、名倉屋旅館ともに空襲で焼失。当館では、親戚、知人はもちろん、焼け出された人々をお泊めしていました。幸い、 本店は焼けることなく、終戦を迎えることができました。当館では、戦中、戦後をとおして、闇物資にいっさい手を出さなかったため、食料の調達には苦労しました。お客様にもご迷惑をおかけしなければなりませんでした。敗戦によって時代の価値観は急変しました。当館にとって、戦後の復興は、呉服橋支店を再建することから始まりました。
ささやかながらも、それが実現できたころ、3代目を継ぐ人物として、昭和23年、浜田隆(旧姓・野本隆)を迎えました。

平成

高度成長も熟してきた昭和48年、私達は時代の将来を考え、慣れ親しんできた本店を高層ビルに建替えることになりました。これは三代目の最大の決心であっ たといえます。3年後に本店ビルは竣工。その後は六本木花ごよみを出店するなど、昭和から平成にかけて、新しい事業を展開してきました。平成7年には、4代目当主に浜田章男が就任。受け継いだ伝統と真心を、さらに新鮮な視点から事業に活かしていきたいと考え、八重洲龍名館建替計画が始まりました。平成17 年9月に浜田章男が会長に就き、弟の浜田敏男が社長に就任、建替え計画は継続され平成21年6月に新たに「ホテル龍名館東京」として開業いたします。
本店の敷地には、昔からこの地に伝わる槐(えんじゅ)の木があります。関東大震災のときに焼けこげたものの、間もなく新芽をつけた、生命力の強い木です。 本店を改築する際にも、切り倒さずにすむよう設計しました。